日に2万個以上を売り上げる駅弁「シウマイ弁当」
や「昔ながらのシウマイ」で知られる崎陽軒。
いずれも横浜名物としての不動の地位を誇る人気
商品だ。時代が変化する中で、百年企業として成
長を遂げてきた背景には、徹底したローカル戦略
があった。
1908年、横浜駅構内の食料・雑貨の売店とし
て創業した崎陽軒だが、意外にも創業当初、シウ
マイを扱っていなかった。駅弁は販売していたも
のの、当時の東海道線の下り路線は、始発の東京
駅で駅弁を購入する乗客が多く、横浜駅での販売
は芳しくなかった。横浜は幕末に開港した先進的
な都市でありながらも東京への通過点に過ぎず、
街を代表する名産品が存在しないことも悩みのタ
ネだった。
「名物がないなら作ればいい」。初代社長である
野並茂吉氏が目をつけたのが、港町で中華街を擁
する横浜らしさを象徴するシウマイだった。とこ
ろが、シウマイを弁当として販売する上で致命的
な課題が立ちはだかる。冷めると美味しさが損な
われてしまうのだ。そこで地元中華街の点心職人
をスカウトし、試行錯誤の末に完成したのが、具
材の豚肉にホタテの貝柱を加えた「冷めてもおい
しいシウマイ」。その製法は、いまなお受け継が
れている。苦労の末に作り上げたシウマイだが、
発売当初の売れ行きは芳しくなかった。
茂吉氏の孫であり3代目となる現社長の野並直文
氏は慶応義塾大学卒業後、崎陽軒に入社。最初に
任されたのは、弁当のご飯を炊く「シャリ屋」と
称される係だったという。「シウマイの味を引き
立てるのはおいしいご飯があってこそ。あれはい
い経験だった」(野並社長)。
社長就任前、先代社長である父・豊氏から大きな
選択を迫られる。「全国展開すべきか、ローカル
路線でいくか」。悩む直文氏の背中を押したひと
つが、当時、大分県知事として「一村一品運動」
を提唱していた平松守彦氏の言葉。
「真にローカルなるものがインターナショナルに
なりうる」。「この言葉にはっとさせられた」(
直文氏)と述懐する。
以来、横浜を中心とする地域密着型企業としての
経営姿勢を鮮明にする。シウマイの全国販売から
段階的に撤退し、地元でしか販売しない戦略に舵
を切る。結果として「ご当地感」が商品ブランド
を高め、販売増につながった。直文氏は「これぞ
商売の醍醐味」と語る。